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代表取締役 経歴(プロフィール)

代表取締役 宮崎 林司

1) 何になるのか?進路について考える

 中学を卒業して高校に入学する際にも通学に近いという理由だけで近くの高校を選択し、大学も親や兄弟に金銭的な負担をかけるので通学できる国立大学を選択しました。
しかし、現役では入学できず浪人をしてしまいました、人生はじめての挫折だったのかも知れませんが、浪人中は「何のために大学に行くのか?」「何になりたいのか?」など人生について考える貴重な時間となりました。 
そのとき自分につけられた「林司」という変わった名前を考えて、林学を選びました。
そのときに漠然と考えていたのは国土の67%も森林があるのに産業としてあまり振興していない、この分野に自分の役割が何かあるのではないかと考えて進路を決めました。
大学に入って、田舎物である自分の視野の狭さを感じ、このままでは、「井戸の中の蛙」であることに気付いて、森林分野での仕事を考えるなら、「森林国カナダ」へ行って見たいと考えるようになりました。
3年生を終了し、休学をして海外移住事業団(現国際協力事業団)の第三次カナダ学生実習調査団に参加して約1年間カナダの実社会でリンゴ果樹園や製材工場で実習経験をしました。
一つひとつすべてが良い経験でしたが、海外から日本を見るという何物にも代えがたい体験をさせていただきました。
翌年の4月にブラジル丸という船でサンフランシスコから横浜まで17日間かけて日本に戻りました。「本当に太平洋は広いなー」と感じたのを覚えています。

2)就職そして退職

帰国後、すぐに求人応募をするように進められたのが、住友林業でした。4月17日に復学して、25日の願書締め切りに応募するという、たいへんあわただしい就職活動でした。
どたばたしたにもかかわらず幸いにも採用が決まり、翌年入社することとなりました。

住友発祥の地、四国の新居浜市で研修を受けた際の言葉が入社後17年を過ぎて思い起こされました。
その言葉は、住友本家の先人が鉱山開発で傷んでしまった山に植林をしたのが、住友林業の基だと教えられました。その言葉は「報国土精神」お世話になっている国土に報いる精神で植林を始めた事を教えられました。
この崇高な精神に大変感銘を受け、心深く残っていたのだと思います。
その後、四国の山林部、海外開発部門、インドネシア、マレーシアの伐採現場、パプアニューギニア、ソロモン、南米のチリ、ラオス、ニュージーランドなどの国々の天然林開発輸入を中心とした業務に携わりました。
年々劣化する天然の森林を目の当たりにして、自分のおこなっていることに疑問とジレンマを感じていました。

3) 報国土精神を思いだす

そんな折に「NGO熱帯林行動ネットワーク」が熱帯雨林の森林破壊を止めるようにある商社にデモをかける事件がありました。この報道記事を読んでいる中で、自分が持っていた価値観と違う彼らの論理、開発のために
?@道路をつくるからいけないんだ。
?A木材以外の植物で人間に役立つかもしれない植物種が、わからないままに地上から消えてしまう
ことがたいへん問題であることがわかりました。
日頃の活動の中で感じていた疑念が一気に確信に変わりました。
それは、これ以上熱帯の天然林を伐採する事は止めるべきであること、伐採した跡地には植林をして、環境を守る必要があることでした。
このとき思い浮かんだのが先人の「報国土精神」、いまこそ「報地球精神」で植林をはじめる時だと感じて、社内で提案をしましたが受け入れられず、この会社に自分のフィールドは無いと感じて退職を決意しました。

4)脱サラで起業

しかし、自分が脱サラをしても植林という時間と資金のかかる事業をできると考えての退職ではなく、これ以上、海外の木材を扱う仕事を止めることが一義的な理由でした。
そして、ジャングルで歩く中で感じてきた「自然の偉大さと大切さ」「健康の大切さ」の分野で社会に貢献できる仕事をやりたいと考えて設立したのが現在の会社です。
ローマ字で「VIVO」と表記するのは、スペイン語の単語VIVO=イキイキという意味から頂いた名前です。
はじめは、三井石油化学工業株式会社の業務委託を受けてスタートしましたが、その後、園芸植物や自然由来の健康食品の製造販売を手がけて順調になりだした1995年に、インドネシアの合弁会社の社長から、インドネシアへ招待をされました。その年に住友林業と20年余りの合弁契約を解消したということでのお誘いでした。

5) オランウータンのリハビリセンターでの気付き

翌1996年にインドネシアを訪問し、そのときに連れて行かれたのが、インターナショナルハイスクールの子供の発案で父兄と先生方が協力して運営していたオランウータンのリハビリセンターでした。
そこには、かつての伐採現場でよく見かけたような親子のオランウータンがいました。
森林を伐採してオランウータンの棲家を奪った自分が何もしてないのに、害を与えたわけではない子供たちが立ち上がって、オランウータンの保護活動を行っていることに感銘を受けました。
自分の行為に責任を果たしていない日本人、このままでは申し訳が無いと考えて以来、オランウータンの保護活動を続けています。
以来、寄付金を持って行くために毎年、インドネシアを訪問するになりました。

(その後、BOS日本を設立。正式名称は「ボルネオ オランウータン サバイバル ファウンデーション」
オランウータンの救済活動を行なうNPOです。
URL:http://www.bos-japan.jp

1999年1月のもそのために訪問をしました、その時の光景は衝撃的でした。

6) 森林の劣化と減少の現実

見渡す限り、森林は焼けて、これまで潅木林に覆われて顕在化していなかった森林の劣化と減少の現場を目の当たりにして、体が身震いを覚えるほどの衝撃を受けました。
山火事で広い範囲にわたって、永い間続いていた事は、日本のテレビ報道で知っていましたが、その後の状況は現場ではじめて知りました。
昔のジャングルを知る自分にとっては、この世の物とは思えない光景でした。
現地で会う人会う人に「何とかしないの?」と問いかけましたが、「お金も無いし、方法も判らないから仕方ないよ」という答えばかりでした。

7)地球規模の問題であることの気付き

この森林が抱えていたCO2はどこ行ったのだろうかという考えが頭に浮かびました。
その時にはじめて、この問題はインドネシア一国の問題ではなく、地球規模の問題なんだと気付かされました。地球規模の問題であるからには、森林破壊のきっかけとなった木材の伐採をした日本人として、何か行動を起こすべきだと考え、6ヶ月間考えて1991年6月に事業を通じていただいた利益の一部を植林に寄附させていただくことを始めました。
その窓口は、先の合弁会社社長だったルスタム氏です。その彼がチークの組織培養苗の量産にその前の年に成功していて、チークの普及を始めたところで、この事業を一緒にやらないかとの誘いを受けました。

8) 2イン1事業植林のはじまり

その苗の生産事業は、前の会社に在職していた10年前に共同事業を提案されましたが、私が責任者で「事業に参加しない」という結論を出した当事者でした。
10年後のこの時に再び自分の前に量産された苗木になって再び提案をされたのです。
深い深い因縁を感ぜずにはいられませんでした。
寄附という非日常の行為としての植林では、ほとんど役に立たない、この現実を打開するには、植林を日常的な活動、生業として取り組む必要を感じていた時期でした。
熱帯雨林の再生をやりながら、事業植林をする、2本を植えて1本を切るという仕組み(2イン1)でやろうということで現在の植林事業を展開してきました。
資金と時間負担を分かち合う日本の林業界にはなじみの「分収育林」の仕組みを導入して、「立木」を流動化して、資金を回転させつつ植林地を拡大する方式を考案して現在の事業を進めています。

9) 私の願い

世の中に無い仕組みのために理解をし難い部分がありますが、インドネシアでは林業大臣や駐日インドネシア大使にも推薦を頂いており、現地側からも期待されています。
地球温暖化、地球環境の劣化の問題を解決するには、世界規模の規模の植林が必要です。
地球市民みんなが参加して、参加者がメリットを得られる、当事者みんながメリットを得られる仕組みで緑豊かな地球を未来世代に残したい、それが私たちの願いです。
植林をしないで、人類の未来はありませんから....

大使推薦文

No forest No future